2008年5月 4日 (日)

愛宕さん

 愛宕さんにお参りしました。
 京都は盆地なので、まわりを山に囲まれています。その中で特に高い山が二つ。北東の比叡山と、北西の愛宕山です。比叡山の山頂には延暦寺、愛宕山には愛宕神社があり、京都の街を守ってくれています。
 親しみを込めて「愛宕さん」と呼ばれるこの愛宕神社は、火伏せの神さまとして有名。「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれたお札は、京都ではほとんどの家の台所に貼ってあるほどです。また、3歳までに愛宕さんにお参りすると一生火事にあわないという言い伝えがあり、私や妹弟も3歳になるまでに両親に連れられてお参りしました。幼い子には辛い道のりですが、とてもよい経験になります。
 今回は、3歳になる姪の参拝の付き添いで、家族総出でのお参りです。薄紫の藤の花やカエデの新緑を楽しみつつ、子どもの手をひきながらの、のんびりした登山。子どもをなだめながら、30分ごとに休憩を入れ、ゆっくりと山道を登っていきます。ゴールデンウィーク中だったので、たくさんの人で賑わっていました。登山道ですので、すれ違うときには必ず「おはようございます」「こんにちは」と、声をかけ合います。街中では人が多すぎて、かえって挨拶することが少ないですが、このように知らない人同士が、きちんと声をかけあうのは、気持ちのいいものですね。幼い姪を見ると、皆さん、「小さいのに頑張ってるね」「もうちょっとで山頂だよ」と声をかけて下さいます。
 午前7時半に、ふもとの清滝川を出発し、愛宕神社に到着したのはなんと11時。しかし、そこには思わぬサプライズが。なんと、満開の桜たちが、私たちを出迎えてくれたのです。この時期に愛宕さんにお参りするのははじめてで今まで気付かなかったのですが、門前には様々な種類の桜が植えられていたのです。牡丹桜などは、まだつぼみもたくさん残っていて、京都の街中と比べると1ヶ月ほど遅れているようです。お参りを済ませ、満開の桜の下で、楽しみにしていたお弁当にありつきます。久々に山の上で食べるおにぎりの味は最高でした。
 復路も、楽ではありません。階段が多く、一面の落ち葉で足がとられて、すべりやすいのです。みんなが交代で、姪の両手をひきながら、午後3時、ようやく清滝川にたどり着きました。姪も、ふらふらになりながら、なんとか自分の足で、登り切ったのでした。姪にとっても、忘れられない一日になることでしょう。

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2008年5月 2日 (金)

わがまま

 私は、自他共に認めるわがままです。 
 心理学専攻の方に、どうすればわがままが治りますかという質問をしたところ、こんな答えが返ってきました。
 「自分より大切な人のことを考えなさい」。
 まさに目から鱗でした。
 そうか、わがままというのは、自分が一番大事だということ。自分のことしか考えていないから、自分が幸せならそれでよいと思ってしまう。
 でも、誰にだって自分より大切な人がいますよね。家族、恋人、友人…。その人のためなら、何だってできるという人が。大事な人のためなら、多少自分のことを犠牲にしても、我慢できます。
 そうやっていつも自分の大切な人のことを考えていれば、わがままは治るのかもしれません。
 人間、誰しも利己的で、マザー・テレサやコルベ神父のように利他の精神を持つ人を尊敬し、そうありたいと願うけれども、実際はなかなかそうはいかない。でも、まずは、大切な人のことを考えることからはじめればいい。そう、教えられた一言でした。
 

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2008年5月 1日 (木)

650年の伝統

 初めて、能を体験しました。
 能の演目は、神(しん)男(なん)女(にょ)狂(きょう)鬼(き)の5つに大別できます。最初の3つは、神、男性、女性を題材にしたもの。そして、狂はわが子を奪われて捜し求める母、鬼は怨霊を描いたものが中心です。演じる順も、神男女狂鬼の順。最近では5番すべてを演じるのではなく、その中から2つくらいの演目が選ばれます。
 おもしろいのは、おもて(能面)や装束には、すべて決まりごとがあるということ。分かりやすい例は、おもての髪の描き方。「女」のおもてでは整っている女性の髪の毛が、「狂」のおもてでは少し乱れ、「鬼」ではかなりの乱れ髪となっています。髪の毛が、登場人物の心が表現しているのですね。装束の色にも決まりごとがあります。若い女性には紅色の入るものを用い、裏地の色も紅色。これが白色の装束なら、高貴な女性を表します。扇でも、上両端の色が、紅色(妻紅)であれば若さ、紺色(妻紺)であれば老いを表すのだそう。装束や道具の決まりごとを知れば、能に対する興味も自然と増してきます。
 さて、今回体験させて頂いたのはシテ方。謡と舞を担当する能の主役です。
 まずは謡。先生と向かい合って有名な「高砂」のお稽古です。情景を思い浮かべながら、遠くまで届くようにお腹から大声を出します。但し、息を吐き切ってしまうと息継ぎに時間がかかります。少し余力を残すくらいにしておけば、息継ぎもスムーズですし、声にも深みが出てきます。先生のお手本に続いて、謡うのですが、節が難しく大苦戦。人前で披露できるようになるまでには、かなりの修行が必要です。
 次に、舞の稽古。まずは基本の姿勢や摺り足に続いて、刀の扱いも学びました。基本は寸止めで、刀をあわすことはありません。しかし、これが意外にアクロバティック。切られる方は、大きな音をたてて宙返りをしたり、後方にバタンと倒れこんだり。
 そして今回は特別に、装束を身にまとい、おもてをかけさせて頂きました。装束は大柄に見せるためにかなり分厚くて重く暑いこと、おもてをかけると視野がほとんどなくなること、また充分に空気を吸えないので息苦しいことも分かりました。本来ならば、装束をつけるまでに、5~7年修行するのだそうです。とても貴重な体験でした。
 私の友人にも能楽師がいます。彼とはこれまでに何度も同じ舞台に立っています。といっても、もちろん私が能を演じるわけではありません。能の演目には、植物が登場するものが多くあります。例えば「吉野天人」なら桜、「羽衣」なら松。そこで、まずは私が能の演目にちなんだいけばなで舞台を装飾し、友人がそのいけばなの前で能を演じるといったコラボレーションに挑戦しているのです。今回の経験を生かせば、次回の友人とのコラボレーションは一味違ったものになるに違いありません。

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2008年4月10日 (木)

春夏秋冬

 ザ・リッツ・カールトン大阪で、美しい日本の四季をテーマにした舞台に出演しました。様々なアーティーストが日本の春夏秋冬を彩るという趣向です。
 まずは春。舞台幅20mを超える大きなステージの中央に設けられた月見窓。幻想的な音楽にあわせて花がいけられていく様子が、月見窓の障子に影絵で浮かび上がります。裏側からライトをあてて、私が花をいけている姿を映し出しているのです。シルエットが消えると同時に、舞台は夏に移ります。祭囃子が響き渡り、花柳糸之社中総勢10名による勢いのよい夏祭りの踊りが繰り広げられます。祭囃子がおさまれば、季節は紅葉の美しい秋。柿やススキといった美しい日本の秋の映像とともに、竹田直郎さんによる尺八の演奏です。雪の舞う冬を彩るのは、中村福助さんによる鷺娘。扇風機を取り付けた大きな脚立2台で雪に見立てた紙ふぶきを降らせる本格的な演出です。そして季節はめぐり、再び春に。月見窓が左右に開き、御所車をモチーフにした牡丹桜の大作が、舞台前方に現れます。最後に私の自分の身体よりも大きな桜を一枝いけあげて、舞台はフィナーレを迎えます。
 それぞれのアーティーストが持ち味を生かしつつも、全体がつながって一つの物語が完成するというストーリー性のある素晴らしい演出で、出演者の皆さんもよい舞台だったと声を揃えておられました。
 こうやっていろんな方と同じ舞台に立たせていただくのは、私にとって大きな刺激になります。社中にはとても厳しくそしてとても優しい花柳先生。いつも背筋をしゃんと伸ばし礼儀正しい竹田さん。スタッフにも気を使い愛嬌たっぷりな表情を見せて下さる福助さん。魅力的な方々との出会いは、有意義で、そして何よりとても楽しいひとときでした。

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2008年4月 2日 (水)

トランポリン

 トランポリンを体験しました。小学生の頃、近くの公園にあった子ども用のトランポリンで遊んだことはありますが、きちんと体験するのは初めてです。トレーニングセンターに到着すると、そこにはトランポリン上で次々と高度な技を披露するたくさんの子どもたちがいました。
 腰から落ちたり、お腹から落ちたりと、トランポリンには、普段地上ではありえない動きがいっぱいです。自分の身体を思い切ってトランポリンに投げ出さなくてはならないのですが、これが意外と難しい。ついつい、恐怖感から思い切りが悪くなってしまうのですが、怖がるとかえってバランスをくずしてしまい危ない。
 上手に飛ぶコツは、トランポリンの中央からぶれないこと。トランポリンの真ん中に落ちないと、身体があらぬ方向に飛ばされてしまいます。先生代わりの子どもたちが教えてくれたのは、「空中では、足首を真っ直ぐ伸ばしてくっつける」そして「手も同様に、指先までまっすぐに伸ばす」ということ。そうすれば身体の芯がぶれないし、飛ぶ姿も美しく見えるのです。
 子どもたちの指導と練習の甲斐あって、最後にはトランポリンの上でくるっと宙返り。とても楽しい体験でした。
 トランポリンも人生も、ぶれないことが大事。寄り道をするのはよい体験ですが、人としてこうありたいという自分の根っこは、ぶれてはいけない。子どもたちにそう教えられた気がします。

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2008年3月28日 (金)

1分の感じ方

 私は、早起きが苦手です。「早起きは三文の徳」とは分かっていても、朝は1分でも長く寝ていたい。朝御飯も半分寝ぼけながら食べています。朝の1分は、夜の何倍も貴重に感じるのです。同じ1分の感じ方が、朝と夜で違うというのは不思議ですね。
 朝と夜では、感情の起伏も違います。静かな夜に、きらめく星空を見上げるとき、私は柄にもなくセンチメンタルになります。私たちが今見ているのは、我々が生まれるはるか昔の宇宙の姿。想像を絶するとてつもなく大きな時間の流れの中では、自分の人生がすごくちっぽけなで儚く思えます。夜の私は、生きる意味を問う哲学者。きっとあなたもそうやって眠れない夜を過ごしたことがあるでしょう? しかし、一晩ぐっすり寝て朝になると、感傷的な自分はもうそこにはいません。日々の雑事に追われ、気ぜわしく過ごしています。
 情緒豊かな夜の自分も、大切にしたいものです。

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2008年3月27日 (木)

桜の顔

 もうすぐ四月。自然の美しい季節がやってきます。家の近くを歩くと、たくさんの花たちに出会います。香りのよい沈丁花、白い小花が鈴なりになった馬酔木、大きな花が華やかな木蓮…。
 鴨川沿いの桜の花もほころんできました。川にかかる橋に立って眺めていると、上流と下流で、桜の表情が違うのに気付きました。
 鴨川の水は、北から南へと流れています。上流を眺めると桜のつぼみがほころんでおり明るく元気に見えます。それが、振り返って下流を眺めると、まだつぼみが固く色もちょっぴり沈んで見えるのです。
 理由は皆さんもご存知の通り。太陽は南から当たるので、桜の木はその幹の南側に枝を長く伸ばし、たくさんのつぼみをつけます。この幹の南側が、桜の顔です。もちろん、つぼみも南側からほころんでいきます。橋に立って上流を眺めれば、幹の南側つまり桜顔が見えるので、つぼみがほころんで明るく見えたのですね。
 桜にも顔があるのを、改めて実感しました。

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2008年3月21日 (金)

京都の庭

 京都の日本庭園を撮影した写真集に、華道家の立場から庭園についてのコメントを書かせて頂きました。いけばなと庭園には共に、日本独自のデザイン手法が用いられています。そして、その日本のデザインの背景には、自然を大事にする日本人の想いが見え隠れするのです。

 『京都名庭 枯山水の庭』 青幻舎、2008 寄稿(p.114、115)
 『植治』 京都通信社、2008 寄稿(p.94)、対談(p.96~110)

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2008年3月19日 (水)

京都・東山花灯路

 雨の中、カッパを着こんで、「京都・東山花灯路」のいけこみに行ってきました。2003年から毎年3月に行われている夜間の野外いけばな展。青蓮院さんから清水寺までが花灯路、つまり「花」と「灯り」のプロムナードになるのです。
 京都市や京都府が中心となって、観光客のまだ少ないこの時期の京都を盛り立てようということで始まったこの企画。最近では、すっかり京都の新しい風物詩として定着してきました。夜間ということもあって、歩いておられるのは若い方が多いようです。この時期にあわせて、わざわざ東京から来られる観光客もおられます。
 花灯路の「花」を担当するのが、私たち、京都いけばな協会のメンバーです。プロムナードの道すがら、各流派の大作いけばながご覧頂けます。
 私の担当は3/19~23、青蓮院前です。ライトアップは18:00~21:30。京都に遊びに来られた観光客に、一足早い花見を楽しんで頂きたいと、毎年、桜をいけています。
   清水へ祇園をよぎる桜月夜、こよひ逢う人みなうつくしき
 与謝野晶子の歌のように、露地行灯に導かれて、そぞろ歩きして頂ければ幸いです。

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2008年3月14日 (金)

肩をならべて

 高校の大先輩、きたやまおさむさんにお目にかかりました。「あの素晴しい愛をもう一度」「戦争を知らない子供たち」の作詞家であり、精神科医でもあるきたやまさん。大学でも教鞭をとっておられ、とにかくお話が上手です。
 あるコンサートを聴いた後、歌手の楽屋に行って「いい曲を歌うね」と話していたら、「その曲は、きたやまさんの作詞ですよ」と言われたとか。数百曲も作っておられると、さすがにすべて覚えているわけではないんですって。
 さて、心理学の研究もなさっているきたやまさんは、西洋画と日本画では、人と人との向き合い方が違うとおっしゃっていました。西洋の絵に出てくる人物は、見詰め合っている。でも、浮世絵に出てくる人物は、肩を並べて同じ方向を見ている。それも、夕焼けや桜のように、はかなく移ろいゆくものを見つめているのだ、と。
 芸術にも、日本人の生き方や暮らし方が表われるんですね。

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