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2008年3月

2008年3月28日 (金)

1分の感じ方

 私は、早起きが苦手です。「早起きは三文の徳」とは分かっていても、朝は1分でも長く寝ていたい。朝御飯も半分寝ぼけながら食べています。朝の1分は、夜の何倍も貴重に感じるのです。同じ1分の感じ方が、朝と夜で違うというのは不思議ですね。
 朝と夜では、感情の起伏も違います。静かな夜に、きらめく星空を見上げるとき、私は柄にもなくセンチメンタルになります。私たちが今見ているのは、我々が生まれるはるか昔の宇宙の姿。想像を絶するとてつもなく大きな時間の流れの中では、自分の人生がすごくちっぽけなで儚く思えます。夜の私は、生きる意味を問う哲学者。きっとあなたもそうやって眠れない夜を過ごしたことがあるでしょう? しかし、一晩ぐっすり寝て朝になると、感傷的な自分はもうそこにはいません。日々の雑事に追われ、気ぜわしく過ごしています。
 情緒豊かな夜の自分も、大切にしたいものです。

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2008年3月27日 (木)

桜の顔

 もうすぐ四月。自然の美しい季節がやってきます。家の近くを歩くと、たくさんの花たちに出会います。香りのよい沈丁花、白い小花が鈴なりになった馬酔木、大きな花が華やかな木蓮…。
 鴨川沿いの桜の花もほころんできました。川にかかる橋に立って眺めていると、上流と下流で、桜の表情が違うのに気付きました。
 鴨川の水は、北から南へと流れています。上流を眺めると桜のつぼみがほころんでおり明るく元気に見えます。それが、振り返って下流を眺めると、まだつぼみが固く色もちょっぴり沈んで見えるのです。
 理由は皆さんもご存知の通り。太陽は南から当たるので、桜の木はその幹の南側に枝を長く伸ばし、たくさんのつぼみをつけます。この幹の南側が、桜の顔です。もちろん、つぼみも南側からほころんでいきます。橋に立って上流を眺めれば、幹の南側つまり桜顔が見えるので、つぼみがほころんで明るく見えたのですね。
 桜にも顔があるのを、改めて実感しました。

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2008年3月21日 (金)

京都の庭

 京都の日本庭園を撮影した写真集に、華道家の立場から庭園についてのコメントを書かせて頂きました。いけばなと庭園には共に、日本独自のデザイン手法が用いられています。そして、その日本のデザインの背景には、自然を大事にする日本人の想いが見え隠れするのです。

 『京都名庭 枯山水の庭』 青幻舎、2008 寄稿(p.114、115)
 『植治』 京都通信社、2008 寄稿(p.94)、対談(p.96~110)

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2008年3月19日 (水)

京都・東山花灯路

 雨の中、カッパを着こんで、「京都・東山花灯路」のいけこみに行ってきました。2003年から毎年3月に行われている夜間の野外いけばな展。青蓮院さんから清水寺までが花灯路、つまり「花」と「灯り」のプロムナードになるのです。
 京都市や京都府が中心となって、観光客のまだ少ないこの時期の京都を盛り立てようということで始まったこの企画。最近では、すっかり京都の新しい風物詩として定着してきました。夜間ということもあって、歩いておられるのは若い方が多いようです。この時期にあわせて、わざわざ東京から来られる観光客もおられます。
 花灯路の「花」を担当するのが、私たち、京都いけばな協会のメンバーです。プロムナードの道すがら、各流派の大作いけばながご覧頂けます。
 私の担当は3/19~23、青蓮院前です。ライトアップは18:00~21:30。京都に遊びに来られた観光客に、一足早い花見を楽しんで頂きたいと、毎年、桜をいけています。
   清水へ祇園をよぎる桜月夜、こよひ逢う人みなうつくしき
 与謝野晶子の歌のように、露地行灯に導かれて、そぞろ歩きして頂ければ幸いです。

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2008年3月14日 (金)

肩をならべて

 高校の大先輩、きたやまおさむさんにお目にかかりました。「あの素晴しい愛をもう一度」「戦争を知らない子供たち」の作詞家であり、精神科医でもあるきたやまさん。大学でも教鞭をとっておられ、とにかくお話が上手です。
 あるコンサートを聴いた後、歌手の楽屋に行って「いい曲を歌うね」と話していたら、「その曲は、きたやまさんの作詞ですよ」と言われたとか。数百曲も作っておられると、さすがにすべて覚えているわけではないんですって。
 さて、心理学の研究もなさっているきたやまさんは、西洋画と日本画では、人と人との向き合い方が違うとおっしゃっていました。西洋の絵に出てくる人物は、見詰め合っている。でも、浮世絵に出てくる人物は、肩を並べて同じ方向を見ている。それも、夕焼けや桜のように、はかなく移ろいゆくものを見つめているのだ、と。
 芸術にも、日本人の生き方や暮らし方が表われるんですね。

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2008年3月 5日 (水)

科学は宗教である

 政治や宗教について公の場で言及するのは禁忌で、一般的にはあまり自分の意見を述べない方がよいとされています。しかし、タブーだからとよく知らないのに遠ざけてしまい、かえって偏った考えを持ってしまってもいけません。
 私は、仏教でもキリスト教でもよいので宗教教育を受けさせたいという父親の意向で、幼稚園からカトリック系の学校に通っていました。その後、修道会は別ですが、小学校・中学高等学校もカトリックでした。強制的に押し付けられたわけではなく、自然と宗教に親しんでいたので、私は、宗教というのは近寄りがたく難しいものではなく、身近なものだと考えています。
 もし、自分が何もかも無くしてしまったとしたら、私は教会に行きます。きっと神父様やシスターが助けて下さる。そんな心の支えが、宗教なのではないかと思います。
 さて、現代では、科学が絶対的なもので、何でも科学で説明がつくと考えられています。幼い頃恐れていた幽霊も聖書に書かれた奇跡も、大人になれば、科学で説明がつかないので存在しないと考えます。
 でも本当にそうでしょうか?
 私は幽霊の存在は信じませんが、この世の中のすべてが科学で説明できるわけではありません。だって我々が、この大きな宇宙について知っていることはごく一部です。大部分については分かっていません。人体を例にあげてみても、不思議なことがいっぱいあります。現在の科学で説明はつかないけれど、確かにこの世の中に存在することがたくさんあるのです。
 そう、科学というのは、現在の人間の知識や経験に基づき、確からしいと信じている知見ですが、絶対的なものではない。今は誰もが知っている地動説だって、当時の科学では説明がつかなかったのですから。
 極端な言い方をすれば、科学も一つの宗教といえるのかもしれません。論理的な思考はとても大事ですが、科学を盲信してはいけません。

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